私たちは「教育を受ければ賢くなる」「学校で学べば正しい知識が身につく」と、どこかで当然のように信じています。しかし一方で、知識量は多いはずなのに、何が重要で何がそうでないのか判断できない人が増えている、という違和感を覚えたことはないでしょうか。
「教育は本を読めるが、読むに値する本がどれかわからぬ人々を大量に作り出した」という言葉は、まさにその違和感を鋭く突いたものです。この一文が投げかけている問題は、単なる読書の話ではなく、現代の教育や思考力そのものに深く関わっています。
この言葉の意味を丁寧にひもときながら、なぜ今もなお多くの人の心に刺さるのか、そして私たちはそこから何を学ぶべきなのかを考えていきましょう。
この言葉は誰のものか
この言葉は、アイルランド出身の劇作家・批評家である ジョージ・バーナード・ショー の思想を要約したものとして広く知られています。ショーは、教育・政治・宗教といった社会制度を鋭く批判した人物で、当時の「常識」を疑う姿勢を一貫して持っていました。
彼が問題視したのは、「教育が人を自由にする」という理想が、現実には必ずしも達成されていないという点です。文字が読めるようになり、知識を詰め込まれても、それをどう選び、どう使うかを判断できなければ、本当の意味で知的とは言えない。この言葉は、その危惧を端的に表現しています。
「本を読める」とは何を指しているのか
まず、「本を読める」という部分について考えてみましょう。ここで言う「読める」とは、単に文字を追って内容を理解できる、いわゆる識字能力のことを指しています。
学校教育によって、多くの人が読み書き計算を身につけ、文章を理解できるようになりました。これは歴史的に見れば、非常に大きな進歩です。
しかしショーが問題にしたのは、その先です。
- 書かれていることを理解できる
- 情報を大量にインプットできる
- 本や記事、教科書を最後まで読める
これらができても、それだけでは不十分だと彼は考えました。なぜなら、「何を読むべきか」を判断する力が伴っていない場合、知識は簡単に人を惑わせるからです。
「読むに値する本がわからない」とはどういうことか
この言葉の核心は、「読むに値する本がどれかわからない」という部分にあります。
ここで言う「読むに値する」とは、単に有名であるとか、売れているとか、試験に出るといった基準ではありません。
本来問われているのは、次のような力です。
- その情報は信頼できるのか
- 書き手の意図や立場はどこにあるのか
- 自分の人生や社会を理解するうえで意味があるのか
- 一時的な娯楽で終わるのか、長く考える価値があるのか
これらを自分の頭で考え、取捨選択する力がなければ、どれだけ本を読んでも知性は深まりません。むしろ、表面的な情報に振り回され、思考が浅くなる危険すらあります。
なぜ教育はそのような人々を生み出してしまうのか
では、なぜ教育は「読むに値するものを選べない人」を生み出してしまうのでしょうか。その背景には、近代以降の教育の構造的な問題があります。
正解を覚える教育の限界
学校教育では、多くの場合「正解」があらかじめ用意されています。
- 教科書に書いてある内容を覚える
- テストで正しい答えを書く
- 評価基準に沿って点数を取る
この仕組みは、効率よく一定の知識を身につけさせるには有効です。しかしその一方で、「自分で問いを立てる」「価値を判断する」といった力は後回しにされがちです。
結果として、人はこうした思考パターンに慣れてしまいます。
- 権威が勧めるものが正しい
- 多数派が選んでいるものが良い
- 評価されているものに従えば安心
この姿勢のまま社会に出ると、「何を読むべきか」も他人任せになり、自分で選ぶ力が育ちません。
知識量と知性を混同してしまう
教育の現場では、どうしても「どれだけ知っているか」が重視されます。しかし、知識の量と知性の深さは必ずしも一致しません。
- 多くを知っていても、考えが浅い場合がある
- 少ない知識でも、本質を捉えている人がいる
ショーが批判したのは、知識を詰め込むこと自体が目的化してしまい、その使い方や意味を考えない教育です。これでは、本を読む力は育っても、本を選ぶ力は育ちません。
現代社会におけるこの言葉の重み
この言葉が書かれてから長い時間が経っていますが、現代においてその意味はむしろ強まっているとも言えます。
情報過多の時代だからこそ
現代は、本だけでなく、インターネットやSNSを通じて膨大な情報に触れることができます。誰もが「読める」環境にありますが、その分、質の低い情報や偏った意見もあふれています。
- 刺激的な見出しだけの記事
- 根拠の薄い主張
- 感情を煽るだけの情報
これらを無批判に受け取ってしまうと、知っているつもりでも、実は理解から遠ざかっているという状況に陥ります。まさに「読めるが、読むに値するものがわからない」状態です。
思考停止を招く「便利さ」
おすすめ機能やランキングは便利ですが、同時に「選ぶ力」を弱める側面もあります。
何を読むかを常に他人やシステムに委ねていると、自分で価値を判断する機会が減ってしまいます。
ショーの言葉は、こうした便利さの裏側にある危うさも先取りしていたと言えるでしょう。
この言葉から私たちが学ぶべきこと
では、この言葉をただの教育批判として受け取るだけでよいのでしょうか。むしろ重要なのは、ここから何を学び、どう行動するかです。
読書とは「選択」の連続である
読書は、ページをめくる行為ではなく、「何を読むか」「どう読むか」を選び続ける行為です。
- なぜこの本を読むのか
- 書かれていないことは何か
- 自分はどう考えるのか
こうした問いを持つことで、読書は単なる情報収集から、思考を深める行為へと変わります。
教育を「受け身」で終わらせない
教育は与えられるものですが、学びは主体的なものです。
学校で学んだことを鵜呑みにするのではなく、「なぜそう言えるのか」「別の見方はないか」と考える姿勢が、本当に読むに値するものを見極める力を育てます。
自分の基準を少しずつ育てる
最初から完璧な判断はできません。大切なのは、自分なりの基準を少しずつ育てていくことです。
- 読んで意味があったか
- 自分の考えが揺さぶられたか
- 時間を使う価値があったか
こうした振り返りの積み重ねが、「読むに値するもの」を見分ける力につながります。
この言葉が今も問いかけているもの
「教育は本を読めるが、読むに値する本がどれかわからぬ人々を大量に作り出した」という言葉は、教育そのものを否定しているわけではありません。
むしろ、教育が本来目指すべき「考える力」「選ぶ力」が置き去りにされていないかを問いかけています。
読む力を持つことは出発点にすぎません。その先にある、判断し、考え、意味を見出す力をどう育てるか。
この問いに向き合い続けることこそが、現代を生きる私たちに求められている姿勢なのではないでしょうか。


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