原作:太宰治
メロス激怒せり。必ずや、彼の邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意せり。メロス、政治を知らず。メロスは村の牧人なり。笛を吹き、羊と戯れて暮らし来たり。されども邪悪に対しては、人一倍に敏感なり。
今日未明、メロスは村を出発し、野を越え山を越え、十里離れた此のシラクスの市に来たり。メロスには父も母も無し。女房も無し。十六の内気な妹と二人暮らしなり。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々花婿として迎ふる事になりたり。結婚式も間近なれば、メロスは、それゆゑ、花嫁の衣装やら祝宴の御馳走やらを買ひに、はるばる市に来たり。
先づ、その品々を買ひ集め、それから都の大路をぶらぶら歩きたり。メロスには竹馬の友あり。セリヌンティウスなり。今は此のシラクスの市にて、石工をして居り。その友を、これから訪ねてみるつもりなり。久しく逢はざりしかば、訪ね行くこと楽しみなり。
歩みつつ、メロスは、町の様子を怪しく思ひぬ。ひつそりとして居り。もう既に日も落ちて、町の暗きは当り前なれど、けれども、なんだか、夜のせいばかりではなく、市全体が、やけに寂しきなり。呑気なるメロスも、だんだん不安になり来たり。
路にて逢った若き衆をつかまへて、「何かあったのか、二年前に此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたひて、町は賑やかであった筈なれど」と質問せり。若き衆は、首を振りて答へず。
暫く歩みて老爺に逢ひ、今度はもっと、語勢を強くして質問せり。老爺は答へず。メロスは両手にて老爺の体を揺すぶりて質問を重ねたり。老爺は、あたりを憚る低声にて、僅か答へたり。
「王様は、人を殺します。」
「なぜ殺すのだ。」
「悪心を抱いてゐる、と云ふのですが、誰もそんな、悪心を持つては居りませぬ。」
「たくさんの人を殺したのか。」
「はい、始めは王様の妹婿様を。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹様を。それから、妹様の御子様を。それから、皇后様を。それから、賢臣のアレキス様を。」
「驚いた。国王は乱心か。」
「否、乱心ではござりませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、と云ふのです。この頃は、臣下の心をも、お疑ひになり、少しく派手な暮しをしてゐる者には、人質一人ずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。今日は、六人殺されました。」
聞きて、メロスは激怒せり。「呆れた王だ。生かして置けぬ。」
メロスは、単純なる男なり。買ひ物を、背負ったままで、のそのそ王城に入つて行きたり。たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛されり。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出で来たりて、騒ぎが大きくなりぬ。メロスは、王の前に引き出されり。
「此の短刀で何をするつもりであったか。言へ!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問い詰めたり。その王の顔は蒼白にして、眉間の皺は、刻み込まれたやうに深かりき。
「市を暴君の手から救ふのだ。」とメロスは悪びれずに答へたり。
「おまへがか?」王は、憫笑せり。「仕方の無いやつじゃ。おまへには、わしの孤独がわからぬ。」
「言ふな!」とメロスは、いきり立ちて反駁せり。「人の心を疑ふのは、最も恥づべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさへ疑つて居られる。」
「疑ふのが、正当の心構へなのだと、わしに教へてくれたのは、おまへたちだ。人の心は、あてにならぬ。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほつと溜息をつきたり。「わしだつて、平和を望んでゐるのだが。」
「何の為の平和だ。自分の地位を守る為か。」今度はメロスが嘲笑せり。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」
「黙れ、下賤の者。」王は、さつと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言へる。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまへだつて、いまに、磔になつてから、泣いて詫びたつて聞かぬぞ。」
「ああ、王は悧巧だ。自惚れてゐるがよい。私は、ちやんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞ひなど決してしない。ただ、――」と言ひかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらひ、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与へて下され。たつた一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰つて来ます。」
「馬鹿な。」と暴君は、嗄れた声で低く笑ひたり。「とんでもない嘘を言ふわい。逃がした小鳥が帰つて来るといふのか。」
「さうです。帰つて来るのです。」メロスは必死で言ひ張りたり。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待つてゐるのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、此の市にセリヌンティウスといふ石工が居ります。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行かう。私が逃げてしまつて、三日目の日暮まで、ここに帰つて来なかつたら、あの友人を絞め殺して下さい。頼む、さうして下さい。」
それを聞きて王は、残虐なる気持で、そつと北叟笑んだ。生意気なことを言ふわい。どうせ帰つて来ないに決まつてゐる。此の嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。さうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいふ奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願ひを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰つて来い。遲れたら、その身代りを、きつと殺すぞ。ちよつと遲れて来るがいい。おまへの罪は、永遠にゆるしてやらうぞ。」
「なに、何をおつしやる。」
「はは。いのちが大事だつたら、遲れて来い。おまへの心は、わかつてゐるぞ。」
メロスは口惜しく、地團駄踏みたり。ものも言ひたくなくなりぬ。
竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召されたり。暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢ふた。メロスは、友に一切の事情を語りたり。セリヌンティウスは無言で首肯き、メロスをひしと抱きしめたり。友と友の間は、それでよかりき。セリヌンティウスは、縄打たれたり。メロスは、すぐに出発したり。初夏、満天の星である。
メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したるは、翌る日の午前、陽は既に高く昇つて、村人たちは野に出て仕事をはじめてゐたり。メロスの十六の妹も、けふは兄の代りに羊群の番をしてゐたり。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いたり。さうして、うるさく兄に質問を浴びせたり。
「なんでも無い。」メロスは無理に笑はうと努めたり。「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かねばならぬ。あす、おまへの結婚式を挙げる。早い方がよからう。」
妹は頬をあからめたり。
「嬉しいか。綺麗な衣裳も買ひて来た。さあ、これから行つて、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」
メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰つて神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調へ、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらゐの深い眠りに落ちてしまひたり。
眼が覚めたるは夜なり。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れたり。さうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼みたり。婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来てゐない、葡萄の季節まで待つてくれ、と答へたり。メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給へ、と更に押して頼みたり。婿の牧人も頑強であつた。なかなか承諾してくれず。夜明けまで議論をつづけて、やつと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せたり。結婚式は、真昼に行はれたり。
新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆ひ、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すやうな大雨となりぬ。祝宴に列席してゐた村人たちは、何か不吉なものを感じたりしかども、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも堪へ、陽気に歌をうたひ、手を拍つた。メロスも、満面に喜色を湛へ、しばらくは、王とのあの約束をさへ忘れてゐたり。
祝宴は、夜に入つていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなりぬ。メロスは、一生このままここにゐたい、と思ひたり。この佳い人たちと生涯暮らして行きたいと願ひたりしかども、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。メロスは、わが身に鞭打ち、つひに出発を決意せり。
あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちよつと一眠りして、それからすぐに出発しやう、と考へたり。その頃には、雨も小降りになつてゐよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまつてゐたかりき。メロスほどの男にも、やはり未練の情といふものは在る。
今宵呆然、歓喜に酔つてゐるらしい花嫁に近寄り、
「おめでたう。私は疲れてしまつたから、ちよつとご免かうむつて眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がゐなくても、もうおまへには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまへの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑ふ事と、それから、嘘をつく事だ。おまへも、それは、知つてゐるね。亭主との間に、どんな秘密でも作つてはならぬ。おまへに言ひたいのは、それだけだ。おまへの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまへもその誇りを持つてゐろ。」
花嫁は、夢見心地で首肯きたり。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、
「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝と云つては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげやう。もう一つ、メロスの弟になつたことを誇つてくれ。」
花婿は揉み手して、てれてゐたり。メロスは笑つて村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだやうに深く眠りたり。
眼が覚めたるは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、否、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合ふ。けふは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやらう。さうして笑つて磔の台に上つてやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめたり。雨も、幾分小降りになつてゐる様子である。身仕度は出来たり。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振つて、雨中、矢の如く走り出たり。
「私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救ふ為に走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らねばならぬ。さうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。」
若いメロスは、つらかりき。幾度か、立ちどまりさうになりたり。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走りたり。村を出て、野を横ぎり、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇つて、そろそろ暑くなつて来たり。メロスは額の汗をこぶしで拭ひ、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きつと佳い夫婦になるだらう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まつすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆつくり歩かう」と持ちまへの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌ひ出したり。
ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降つて湧いた災難、メロスの足は、はたと、とまりたり。見よ、前方の川を。きのふの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、堂々と響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしてゐたり。彼は茫然と、立ちすくみたり。あちこちと眺めまはし、また、声を限りに呼びたててみたりしかども、繋舟は残らず浪に浚はれて影なく、渡守りの姿も見へず。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のやうになつてゐる。
メロスは川岸にうづくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願せり。「ああ、鎮めたまへ、荒れ狂ふ流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまはぬうちに、王城に行き着くことが出来なかつたら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」
濁流は、メロスの叫びをせせら笑ふ如く、ますます激しく躍り狂ふ。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、さうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟したり。泳ぎ切るより他に無し。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せん。
メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のやうにのた打ち荒れ狂ふ浪を相手に、必死の闘争を開始したり。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめつぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思つたか、つひに憐愍を垂れてくれたり。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たり。ありがたし。
メロスは馬のやうに大きな胴震ひを一つして、すぐにまた先きを急ぎたり。一刻といへども、むだには出来ず。陽は既に西に傾きかけてゐる。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切つて、ほつとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出たり。
「待て。」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かねばならぬ。放せ。」
「どつこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」
「私にはいのちの他には何も無い。その、たつた一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」
「その、いのちが欲しいのだ。」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしてゐたのだな。」
山賊たちは、ものも言はず一斉に棍棒を振り挙げたり。メロスはひよいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲ひかかり、その棍棒を奪ひ取つて、
「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さつさと走つて峠を下りたり。
一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かつと照つて来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、「これではならぬ」と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、つひに、がくりと膝を折りたり。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出したり。
「ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たメロスよ。眞の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切つて動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまへを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまへは、稀代の不信の人間、まさしく王の思ふ壺だぞ」と自分を叱つてみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなはず。路傍の草原にごろりと寝ころがりたり。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいといふ、勇者に不似合ひな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰つた。
「私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かつた。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走つて来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、出来る事なら私の胸を截ち割つて、眞紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いてゐる此の心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きつと笑はれる。私の一家も笑はれる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定つた運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかつた。私たちは、本当に佳い友と友であつたのだ。一度だつて、暗い疑惑の雲を、お互ひ胸に宿したことは無かつた。いまだつて、君は私を無心に待つてゐるだらう。ああ、待つてゐるだらう。ありがたう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思へば、たまらない。友と友の間の信実は、此の世で一ばん誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、私は死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがひ無い。否、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういつそ、悪徳者として生き伸びてやらうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追ひ出すやうな事はしないだらう。正義だの、信実だの、愛だの、考へてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかつたか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。」
――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまひたり。
ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えたり。そつと頭をもたげ、息を呑んで耳をすましたり。すぐ足もとで、水が流れてゐるらしい。よろよろ起き上つて、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出てゐるのである。その泉に吸ひ込まれるやうにメロスは身をかがめたり。水を両手で掬つて、一くち飲みたり。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたやうな気がしたり。
「歩ける。行かう。」
肉体の疲労恢復と共に、僅かながら希望が生れたり。義務遂行の希望である。我が身を殺して、名譽を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いてゐる。日没までには、まだ間がある。
「私を、待つてゐる人があるのだ。少しも疑はず、静かに期待してくれてゐる人があるのだ。私は、信じられてゐる。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言つて居られぬ。私は、信頼に報ひなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。」
「私は信頼されてゐる。私は信頼されてゐる。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまへ。五臓が疲れてゐるときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまへの恥ではない。やはり、おまへは眞の勇者だ。再び立つて走れるやうになつたではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待つてくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であつた。正直な男のままにして死なせて下さい。」
路行く人を押しのけ、跳ねとばし、メロスは黒い風のやうに走つた。野原で酒宴の、その宴席のまつただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しづつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走つた。一團の旅人と颯とすれちがつた瞬間、不吉な會話を小耳にはさんだ。
「いまごろは、あの男も、磔にかかつてゐるよ。」
「ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走つてゐるのだ。その男を死なせてはならぬ。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。」
メロスは、いまは、ほとんど全裸体であつた。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出たり。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔樓が見える。塔樓は、夕陽を受けてきらきら光つてゐる。
「ああ、メロス様。」うめくやうな聲が、風と共に聞えたり。
「誰だ。」メロスは走りながら尋ねたり。
「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだり。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遲かつた。おうらみ申します。ほんの少し、もうちよつとでも、早かつたなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思ひで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめてゐたり。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平氣でゐました。王様が、さんざんあの方をからかつても、メロスは来ます、とだけ答へ、強い信念を持ちつづけてゐる様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられてゐるから走るのだ。間に合ふ、間に合はぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走つてゐるのだ。ついて來い! フィロストラトス。」
「ああ、あなたは氣が狂つたか。それでは、うんと走るがいい。ひよつとしたら、間に合はぬものでもない。走るがいい。」
言ふにや及ばず。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を盡して、メロスは走つた。メロスの頭は、からつぽだ。何一つ考へてゐない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走つた。
陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の殘光も、消えやうとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入したり。間に合つたり。
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰つて來た。約束のとほり、いま、帰つて來た。」と大聲で刑場の群衆にむかつて叫んだつもりであつたが、喉がつぶれて嗄れた聲が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に氣がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。
メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだやうに群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにゐる!」とかすれた聲で精一ぱいに叫びながら、つひに磔臺に昇り、釣り上げられてゆく友の兩足に、齧りついたり。
群衆は、どよめいた。あつぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたり。
「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言ひたり。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴つてくれなかつたら、私は君と抱擁する資格さへ無いのだ。殴れ。」
セリヌンティウスは、すべてを察した樣子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴つたり。殴つてから優しく微笑み、
「メロス、私を殴れ。同じくらゐ音高く私の頬を殴れ。私は此の三日の間、たつた一度だけ、ちらと君を疑つた。生れて、はじめて君を疑つた。君が私を殴つてくれなければ、私は君と抱擁できない。」
メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴つたり。
「ありがたう、友よ。」二人同時に言ひ、ひしと抱き合ひ、それから嬉し泣きにおひおひ聲を放つて泣いたり。
群衆の中からも、歔欷の聲が聞えたり。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の樣を、まじまじと見つめてゐたりが、やがて靜かに二人に近づき、顔をあからめて、かう言つたり。
「おまへらの望みは叶つたぞ。おまへらは、わしの心に勝つたのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかつた。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願ひを聞き入れて、おまへらの仲間の一人にしてほしい。」
どつと群衆の間に、歡聲が起つたり。
「萬歳、王樣萬歳。」
ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げたり。メロスは、まごついたり。佳き友は、氣をきかせて教へてやりたり。
「メロス、君は、まつぱだかじやないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面せり。
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